※暖かくなってきた公園にて – by Canon RP(RF35mm f 5.6 1/800 ISO 100)
自分と同じ生き方を目指すという人が仮にいたら、全力で応援したいものです。
応援できるためにやっておきたいことについて、現在の考えを書いてみました。
「このままでは…」の根底にある真意
今の職場に残るべきか、やめるか、どうしようかというとき、
「残っといたほうがいいよ」
「やめておいたほうがいい」
「これからだとムリだよ」
といった言葉を返されるという話を聞くことがありました。
事実、わたしにも同じようなことはありました。
その言葉の根底にはどんな真意があったのか。
改めて考えてみると、今はこんなふうに思います。
・自分と違ってあなたの場合はムリだよ
・数年前ならまだよかったけど、今からだとタイヘンだよ
・同業が増えるのがイヤだし否定しておこう
どれも良い印象はもてません。
中には背中を押されるような言葉をもらえたことはあります。
だからこそ、余計にそう思うのかもしれません(今でも…)。
わたしの場合は、望んでいる生き方が自分と同じという人が仮にいたとするならば、カタチはあるにせよ全力で応援したいという考えです。
「応援できる」状態の根底にあるもの
望む生き方が近ければ近いほど、自分の刺激にもなりますし、応援したいものです。
・独立する
・場所に左右されない仕事もする
・ブログを書き続ける
・家族との時間を大事にする
・朝型にシフトする
・地方に住む
ということから刺激をもらえ、全力で応援できるのは、自分もそれを本気で望み、選んでやっているからです。
自分で考え、悩み、選んだことなら、他人のことでも自分事のように捉えてもしまいます。
それで刺激をもらえることはありますし、応援したいという気持ちもわいてきます。
生き方を応援され、応援できる独立
独立後は、自分が望む生き方と、相反するような合わない環境とは距離をおくこともできます。
合う環境を自分の足で見つける。そうして見つけた環境には、とことんこだわっていくべきです。
方向性や生き方で共通項が多いほど刺激をもらうことができますし、お互いに応援し合える関係を見つけることもできます。
それに「応援できる」自分にとっても良いメリットはあるものです。
といっても、わたしの場合は、「がんばって!」とだけ伝えるような応援はしません。
※「頑張る」や「がんばれ」は、個人的に思うところもあり使わない言葉です
(細かい性格だと思われるでしょうけど…)。
その代わりといってはなんなのですが、自分のやってきたこと、体験などを言語化する中で、応援の気持ちを多少なりとも込めつもりで書いています(どう受け止められているかはいろいろあるのでしょうけど…)。
応援の気持ちを多少なりとも込めて書いていると、不思議と自分の背筋もシャキッと伸びるような感覚におそわれます。
応援するということは、少なくともそれに値する以上の何かを備えていなければならない、と考えているからかもしれません。
それが自分を律する強制力にもなっています。
応援できるには、それができる状況にないとならないのかもしれませんが、それができる状況に自分を追い込む効果も無視できないメリットです。
自分が望む生き方を求めるように、誰かが同じ生き方を目指しているのなら、それを全力で応援していきたいものです。
そのためにも、余裕をもっておくことは欠かせません。
■編集後記
昨日は朝タスク、HPのカスタマイズのあとは息子の始業式。自宅で会計士業、研究開発を。夜はドラマ「石の繭(まゆ)」の第2話をHuluで。
■昨日の1日1新
・息子の始業式(6年生)に出席
・Colorpicker&loppertool(Google拡張機能)
■息子(11歳)
昨日は始業式。登校はパパとママと3人で。クラス割は5年生のときにとくに仲が良かったお友達と同じでうれしかったようです。担任の先生は始業式の終盤で発表。担任の先生が1クラスずつ発表されると、子どもたちからのリアクションがダイレクトにわかります。歓声でわくクラス、どよめくクラス、ときには…。子どもたちにとっては、サプライズで楽しめるかと。ただ、先生のほうはダイレクトに反応がわかってしまう分、ちょっと気の毒な気も…(まぁ、先生は気しないのかもしれませんけどね…)