独立したいけど「食べていけるかわからないから・・・」という不安はあるもの。
そんなときは「食べていける」とはどういう状態かをつきつめて考えてみるのもおすすめです。
「食べていけるかどうか」という不安
独立を思いとどまる理由のひとつに「食べていけるかわからない」という不安があります。
独立後は、黙っていても仕事が降ってくることも、毎月一定のお金が入ってくる世界から飛び出すことになります。
じぶんで稼ぎ、その中で食べていかなくてはなりません。
わたしの場合も独立を迷っていた時期もありました。
「食べていけるかどうかわからないし・・・」と。
ひとり身ならまだしも、妻も、そして生まれたばかりの子供もいたので、「食べていけるのか」というよりも「家族もろとも露頭に迷わせるかもしれない」という不安がありました。
ただ、そこから一歩踏み出せたからこそ、独立後の今があります。
その一歩踏み出せたきっかけは、「食べていける」とは?を再定義したことです。
独立後の「食べていける」とは
「食べていけるかわからない」といった場合、その「食べていける」とは、いったいどういう状態をイメージしてるでしょうか。
「食べていける」という言葉がそもそも抽象的です。
どういう状態であれば「食べていける」といえるかも、人それぞれであるはず。
「1日1食の食事もままならない」、「路頭に迷う」ようなことになれば、リアルに「食べていけない」といえるわけですが、はたしてそんな状態になるまで放置するでしょうか。
独立を迷われるくらいの人であれば、きっとそうなる前に何かしらの手立てはするはずです。
ところが、他人に相談すると
・独立して食べていけるの??
・独立するなんて・・・
・やめたほうがいいよ
こういった反応も少なくはないでしょう。
「食べていけるかどうか」は本来、他人にはわかりようがありません。
生活水準、価値観、家族構成、すべてが人それぞれ違うわけですから。
「食べていけるかどうか」はじぶん(家族)でしか計り知れないもの。
だからこそ、
・食べていけるとはどういう状態なのか
をじぶんの物差しで再定義してみるのです。
独立のそもそもの理由が「もっと稼ぎたい」ということであれば、「食べていける」といえるためのレベルは高くなるでしょう。
いっぽうで、わたしのように「時間をつくりたい」ということであれば、そこまで高く考える必要もないでしょう。
家計簿からどれくらいのお金が必要なのか、+αとしてどれくらいのお金があったら平穏でいられるか、あくまでじぶんの価値観で計れればいいわけです。
世界が違うからこそ不安にもなる
「食べていける」とはどういう状態なのかを再定義する場合でもうひとつ言えることは、
「食べていけるかどうか」は、独立する前の世界と後の世界ではまったく感覚が違うということ。
独立前だと毎月の給料、就業時間、残業、週休〇日、社保は労使折半など、会社員であればこそというものがありますが、独立後はそうではありません。
独立する前に、独立後の「食べていける」を考えたとしても、それは「独立前の世界」を前提にした不安。
住んでいる世界が違うわけですから。その答えを見つけることもカンタンではなく、カンタンでないからこそ不安にもなるものです。
いざ独立してしまえば、食べていくためになんとかせねばなりませんし、なんとかしようとするものですし、仮にどうにもならなかったとすれば、そのときに不安とぶつかればいいのです。
たしかに、「独立したら食べていけるのか」は避けてはとおれない不安。
立ちふさがる壁ともいえるもの。
ただ、壁を昇らず、見ているだけでは何も変わりません。
一歩踏み出し壁を少し昇ってみることで、見え方も変わってくるはず。
「独立したら食べていけるのか」という壁で一歩踏み出せないのであれば、
じぶんの物差しで「食べていける」を再定義してみましょう。
■編集後記
今日は朝タスク、会計士業(3月決算)で外出を。
夕方は家族と合流して、そのまま夕食(はま寿司)へ行きました。
■息子(9歳)
今日は月に1度のリハビリ外来がある日なので学校はお休みに。
リハビリ病院でお土産を買ってきてくれました(セコマでチョコレートのおやつが定番です)。
夕食のはま寿司では、好物のマグロとトビッ子をがっつり食べました。
今日も食欲旺盛でした。
■1日1新
・サラダチキンバー(スモーク炭火焼)
■1日1写
・セコマのお土産たち